大国主命(オオクニヌシノミコト)
足仲彦命(タラシナカヒコノミコト)・・・仲哀天皇
息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)・・・神功皇后
譽田別命(ホムタワケノミコト)・・・応神天皇
勝運 縁結び 美人祈願 厄除 安産 五穀豊穣
金運 等
当神社のいう『美人』とは、単なる外見だけのことではなく「心がきれいな人」のことを指します。
「豊満神社(とよみつじんじゃ)」は日本一の湖、琵琶湖の東側、滋賀県愛知郡愛荘町豊満に鎮座する神社です。
御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、足仲彦命(たらしなかひこのみこと・・・仲哀天皇)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・・・神功皇后)、譽田別命(ほむたわけのみこと・・・応神天皇)の四柱です。
詳しい創祀年代は不明ですが、康暦元年(西暦1378年)に鋳造された神鐘銘文に「愛知郡崇廟豊満大社云々・・・」とあることから古来よりこの地、大国荘(旧愛智郡)の産土神(氏神)であったことがわかり、現在も愛荘町内や東近江市・彦根市の一部に合わせて(16地域)約1,000戸あまりの氏子があります。また古くより、皇室の篤い崇敬を受けていたことが伝えられております。
そして有名な三韓征伐の折に神功皇后の一軍がこの辺りの竹竿で軍旗を作り、戦場に持参して勝利を収めたという伝説から、当神社の竹を旗竿に用いたならば必ず戦勝するとして源頼朝や豊臣秀次、佐々木・京極・六角氏など多くの武将がこの竹を好んで求めたり、また戦勝祈願をしたことにより勝運の「旗神さま」として世に知られるようになりました。
江戸時代には時の彦根城主 井伊氏などが代々、当神社で厄除の祈願をしたことから「厄除の神」としても繁栄したようです。
その後、御祭神に大国主命が加わり「縁結びの神」としても崇敬を集めるようになりました。
戦乱の頃には、境内の一部が織田信長の兵火によって焼失するなど幾たびの火災や災害にもみまわれましたが、明治元年(1868年)に豊満大明神から現在の豊満神社に名を改め同9年(1876年)に村社に列し、同14年(1881年)には郷社に、そして昭和5年(1930年)には県社に昇格しました。また元享3年(1323年・鎌倉時代後期)建立の正門(『四脚門(しきゃくもん)』)が、明治35年(1902年)に国の特別保護建造物に加えられた後、昭和25年(1950年)には国指定の重要文化財に指定されました。
また近年は「豊満」という名前から女性の容姿(スタイル)向上や美人祈願、そして金運等にも御利益があるとして、全国各地からたくさんの方々にお参り頂いております。
上記の御由緒の他、豊満神社には、鈴鹿の山の方から降りて来られた神様が小倉の地(現東近江市小倉町付近)で一旦お休みになられその後、長村(現東近江市長町)等を経由して最終的に大國の荘 豊満の郷(現在の愛荘町豊満・現鎮座地)にお鎮まりになられたという伝説が残っております。東近江市小倉町には今も、当神社と同じ『豊満神社』という名の神社が現存しています。
また長町には、神様が立ち寄られた時に村人たちから握り飯をふるまわれるなど大切に接待されて気持ちがよくなって発せられた「ここは心地よいところよの~」という言葉から毎年、春の豊満神社の例祭の時に「ここち米」というお米を奉納するのが習わしとなっております。お祭り当日、神輿渡御の御旅所御幸祭では御神輿に、勝運の兜の形に盛った餅米のご飯を含む神饌とそのここち米がいっしょに供えられます。近くの大清水町石仏地区には神様が座られた石があるそうです。
そして地元、豊満地区には、大昔、愛知川を流れてこられた御神体を豊満村に住む七軒の「林氏(林一統)」が村に持ち帰り、この地に安置・神社建立。そのうちの一軒が豊満姓を名のり神職となったという言い伝えもあります。神社の名前と地区の名と宮司家の姓の三つが同じというのは全国的にも珍しいことだったといいます。(現在の宮司は別姓です)現在も四月の例祭には現存する林家から宮元(大字豊満)代表の馬頭人が選出され、その方はご神前にきれいな花弁餅をお供えになられます。
さらに旗神(ハタガミ)の「ハタ」は、古代に大陸からやって来てこの地に入植した依知秦氏(エチハタシ)の「ハタ」のことで、元々はその祖先をお祀りした「秦神」が始まりではないかともいわれております。ちなみに愛荘町の平成の合併前の旧の町名は愛知川町と「秦荘町」です。
何度かの大火事の影響ではっきりした資料などは残っておりませんが、上記のようにこの神社には御鎮座に関する様々な伝説や言い伝えが語り継がれております。
〒529-1321 滋賀県愛知郡愛荘町豊満392
豊満神社 社務所
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FAX 0749-46-3100
E-mail toyomitu@kme.biglobe.ne.jp
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